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新田佑梨×関田育子『波旬』

2022年12月14日〜18日(16日のみ休演日)

急な坂ショーケースvol.3上演作品


急な坂スタジオ(https://kyunasaka.jp/


ご来場いただき、誠にありがとうございました。



 


【ダイジェスト映像】


【本編映像】



 

【コメント】


(敬称略・順不同)


道徳の授業や運転者講習に見ることができる交通安全啓発ビデオのようなブリッジから開始されるそれは、演劇というか演技というか演劇であることを信じていられることが信じられなくなるような適当(クリティカル)さで進行する。関田育子(さん)の舞台をいくつか見たことがある。空間を大きく把握して自由で緻密に取り組んでいる印象がある。言葉の拡張と動きの流れの隅々を確認したくなる。声色の変化、適度なマイム、最小限の表情、だから豊かに見える。吹き出す。愛す。舞台をビデオとして、いつも目をぱちくりと、首をごきぐりと動かしながら見ていた身体はどこも動かすことなくiPadまたはiPhoneの四角形を凝視する。画面外の身体と画面内の空間は制限される。ひとりの人と、漂うふたり。画面というフィルターを通すことで不気味にも無機質にも、怖れを感じる。灯りと音により生まれる不気味さと無機質さは静かで巧みに見える。同じ空間でも灯りと角度が変われば異なる場所になる。トリックに目を向けずともトリックされる体験をする。もしかすると画面内に入れるかもしれないと思う。この画面内の出来事が三次元として画面外に現れて、ようやく私たちは存在できるのだと思う。とても心が躍る。


小野彩加 中澤陽 スペースノットブランク



30分、一瞬たりとも目が離せない驚きの連続。人物の一挙手一投足に、部屋の暗闇に、時折開かれるドアによってもたらされる外光に、突然灯される電灯に、突然のノックの音に、それがいつまでも止むことなくさらにはその「ドンドン」というリズムが加速していくことに、それが足踏みの靴音にスライドし椅子から立ち上がった女がそのリズムでこちらに向かってくることに…そこに生起するあらゆる事物(行為・光・音)に戦慄した。静謐繊細なジェットコースター体験(一人芝居という名の目眩くスペクタクル)!!

ところで、これらのとりとめのない、微かな、一瞬で消えゆく、あるいは間欠的な、しかし決断とした、とにかく魅惑的なあれこれは実はすべてが「物語」の叙述で(も)あるのだった。要するに『波旬』は「演劇」なのであり、物語(テクスト)がありそれを俳優が「演じる」という構造を保持しており、だからその上演の(通常とはかなり異なる特異な、だがこれしかないと思わせる)仕方によって、結果その(ある意味極めて普遍的な)物語に知らず心動かされたのだと言うこともできるのだった。

音楽家・ダンス批評 桜井圭介



『波旬』は、「上演」を、ただの映像記録で見せるのではなく、映像にすることで別の見せ方を見出すという、新しい挑戦をしている。

とくに作品のなかで演者が「おばさん」として舞台であるスタジオの扉の横に立つシーンをみて、そのことにはっと気づいた。上演を観ている観客からしたら、演者がどこに立っていて、どう移動したか…ということは目の前で起こっていることなのだから当然わかることだが、映像ではそうはいかない。上演と違い、映像は、フレーミングされた画面であったり、カメラを切り替えてカットしたりと、フレームの「外」と「内」がある。画面に映っていない部分は、観客にとっては「見えないもの」であり、想像するしかないからだ。このおばさんのシーンでは、画面の中心に演者が立ってこちらに笑顔を向けている。舞台に観客がいる場合は、観客が好きなように見回して鑑賞するのだけれど、映像は「画面の中心の演者」を観るようにフレーミングされている。これが、うまくここでは書けないので実際に映像をみてほしいのだが、単なる上演の映像記録ではない、と気づいた箇所だった。上演という、観客の身体を巻き込んだ表現形式は、映像記録に落とし込むのが非常に難しい、と、わたしも何度か上演の記録を経験してみて感じているところだ。しかし、『波旬』のように、上演をもとに「記録」とはまた異なる映像を作るという試みは、そうした難しさを飛び越えられる突破口となるのかもしれない。演劇など上演の形式で発表している人ももちろんだが、映像制作に携わる人たちにもぜひみてほしい作品。

アーティスト 青柳菜摘



私、は、私、自身が、吃音の、深刻で、あった、時代の、数、年間、の、ことを、若干、想起、しながら、急な坂スタジオで、『波旬』、を、観た。ここで、この場で、ことばは、ことごとく、解体されて、いる、光景、が、目の前、にあった。気がつ、けば、呼吸が、浅く、乱れた。私は、通常の、からだで、この、演劇を、観ることに、もう、この、まま、耐える、ことは、この、あと、絶、対に、でき、ない、と感じた。この、演劇で、語られる、ことば、は、そこまで、突飛、では、なかった。突飛、で、なかった、のは、ことば、だけ、だった。


私は、関、田、育子、の、する、ことに、興味、が、あると、凄、く、感じ、始め、た。


少、し、泣きなが、ら急な坂ス、タジ、オの、前にあ、る、とても急、な坂を、急に、両足で足、早く、降りた。私、が、絶対に、生、涯、つくれない、演劇を、いま、観たと、思った。


私は、吃音を、いつ、かの、時点で、治した。気が、していた。が実は治、ってい、ない。か?


饒舌であ、るこ、とで、世、界で、生、きてい、く、ことを乗、り切ろうと、思ってそのよ、うに、動いたか、ら私は、私が、再生される経験、過去に引き戻され、る、経験したと思っ、て、眠、れな、くて、眠れなかっ、たの、ですか、天、天、天、天井を、観続けながら、「本当に面白かった」と、誰にも、聞こえない声で、呟いた、きれいに呟けたのでそれは良かった。


天井を、見つめた。眠れなかった。何故か、泣いていた。その日は、ずっと、眠れなかった。


劇作家 / キュイ主宰 綾門優季



今絶賛「演技」に悩んでいるので、この「演技」たちはどこにあるのだろう、と考えながらみていました。「演技」というのは発話やアクションのほか、差しこむ光、不在の椅子、ノックの音なども含みます。適切な距離で、こちらに触れてくれる感覚。これらはどこで起きているのだろうと思いました。

「演技」する主体が知覚することと観ている人が知覚することは当然別のことです。そのどちらでもない場所で起きている気がします。宙吊りというか。彼方に向かっているのかな。

「演技」する主体としての私は今、そこを超えられない気がして苦しんでる。いや、私はほんとに「演技」する主体、として在るのかな、それってもっと不確かなことなのかもしれない。そういう感じでやってみよう、などなど考えました。もうちょっと何かある気がする。ぐるぐる。

俳優 西山真来



2022年12月14日に上演会場の急な坂スタジオで鑑賞した『波旬』と、2023年10月22日に自宅のパソコン画面で鑑賞した『波旬』から受ける影響があまりに違うもので驚いた。実演の際に行われていた言葉や身体や音などを、視点を変えるだけで、ただの舞台作品の映像化というわけではなく、リクリエイションされた作品のようになっていたからだ。

それはいわゆる演劇公演を映像化する際に行われる、出演者の顔立ちや息遣いなどの細かいところに眼を向けるというような編集とはまた違ったもので、本作を映す平面的な四角い画面をどのようにアクティングエリアとして扱うか、出演者たちがどのようにその四角い空間のなかで鑑賞者と対峙するかが考えられた作りになっていた。

本作は急な坂スタジオで実演された『波旬』を、映像化ならではのアプローチとして関田育子たちが想定する「一人芝居」として提供している。つまり「虚構を一人の俳優の身体だけで立ち上げるのではなく、現前の環境と関係しあいながら立ち上げる芝居のこと」を四角い画面で実施している。いつでも我々のデバイスの中にレパートリーされた舞台作品として『波旬』は立ち上がるのだ。

演出家 / ルサンチカ主宰 河井朗



14インチのPCモニターで関田育子『波旬』を観た。

何度も繰り返し、PCモニターで観た。フレーミングされた世界。上演の記録でありただの記録には留まらないその映像には、画面内と画面外があり、画面外には(おそらく)観客がいる。(その更に外、モニターの外側には私、がいるが、それはこの「世界」にはなにも作用していない。)観客は、上演と地続きの世界にいる。物語と観客とのあいだの不確かな関係を結ぶものは役者の身体であり、それが、二者の間で<なにか>を共有する。モニターで観る者としてはひたすら疎外感を味わうような鑑賞体験だったがそれは不思議と不快なものではなかった。解体現場をぼんやりと眺めているような気分だった。単なる上演の記録であればカット割・カメラポジションはもっと少なく単純なものでいだろう。けれどもこれは単なる上演の記録ではない。上演とこの映像では、意図が、存在する意味が、受け取られる印象が、全く異なるのではないか。カット割はこの「演劇」を解体するための装置として存在していて、言葉も、時間軸も空間も、現実と夢と記憶の線引きも、全てが解体され続けるこの中で、やはり確固たるものとして存在しているのは役者の身体だった。それだけが信じられる。それ以外は信じてくれなくてもいい、そうやってほっぽりだされたような30分間だった。「音」は外部と接続するための装置であり、記憶=内部へ沈むきっかけでもあった。外部がどんなにやかましく鬱陶しくても、食べる=摂取することで私たちは生を獲得する。

あまりにも取り留めがなくて申し訳ないが、言語化が難しすぎるのでとにかく鑑賞をお勧めしたい。滅法面白いので。

話は変わるが関田育子にはぜひ、コメディを制作してほしい。ぜひ観てみたい。きっとまた、何か裏切られた気持ちになるような、居心地の悪い心地よさが体験できるのではないか、と思っている。

(了)

映画作家 草野なつか



うしろに人が通る、かすかに明滅する光、呼吸音、自動販売機。

時刻は13:55。

この部屋で聞こえるのは空調の音?、カラスの鳴き声、屋外の音も聞こえている?

本の大きさと音読する時の目線、ノックのリズム、足踏みをしながら泳ぐ。

部屋の移動、カットが変わると部屋の音の音量や聞こえ方が変わる、撮影するカメラの位置。

時計が二つ、一つは故障している。

足踏みの音とノックの音が混ざる、ノックのマイム、画面外で起きている事(音)。

カットが変わると正面性が変わる、おそらく上演ではその角度から観る事はできない。

おぼんを置く時の腕の角度とドアノブの角度、おぼんを置いた後の腕の角度。

時刻は14:10。

部屋の中と外と屋外、部屋に対して斜め(先ほど移動した部屋)から撮影したカット、明らかに上演ではその角度から観る事はできない。

部屋の音がフェードで小さくなる、溺れている様に見えた、部屋の音がフェードで大きくなる、カメラが動く。

時刻は15:30。

アフレコの台詞にはリバーブが掛かっている、部屋の外からも同じ台詞が聞こえる、アフレコの電話のコール音、かすかに明滅する光、台詞の音がフェードアウトする。

時刻は16:30。

部屋の音がフェードでゆっくり大きくなる、ご飯を食べる、ゆっくり。

泣いている、様に見えるマイムは二度目かもしれない。

映像の音声は、その場で聞こえていたのか、後から挿入された音なのか、本当の事はわからない、時計の時刻の推移も本当かはわからない。

その場で上演を観たら気に掛けないであろう部屋の音も、一つの存在として他のものと等価に感じてしまう、これも“広角レンズの演劇”という感覚だったのだろうか。

SCOOL店長 土屋光



関田育子という団体の演劇作品を僕はいくつか見たことがある。

マレビトの会の様式を受け継ぎつつ、なにもない空間に人物を心地よく(ときに違和感をもたせながら)配置し、マイムやときには戯画的な動きを交えてコミカルに観るものの脳内に風景をもたらす。それはときに映画のカメラ割りや、漫画のコマ割りを思い出させる。かながわ短編演劇アワードでみた「micro wave」のラストシーンで私には勝手に京急線の赤い電車の滑り込む風景が見え、ひとり客席で感動していた。

そうした演劇体験とこの映像体験は全然違う。演技やカメラ割り、執拗なまでのノックの音は風景を喚起しない。それどころか、段々と私の意識はこの、公共施設の一室でしかありえないヘンテコな扉の配置や妙な空間の出っ張りと、演技する新田さんが想定している“部屋”との関係の気味悪さへと引っ張られていく。この物質的な気味悪さを、もしかしたら“ホラー”っぽい、といえるのかもしれない。

白白と全てを映す蛍光灯のあかり、暗闇へのスイッチ、ひとりでに開く扉、いつの間にか時間が経過している屋外。空間の逃げ場のなさと、テキストとが反響し、新田さんの所作のいちいちをグロテスクにさえ感じさせる(そもそも食べるという行為はかなりグロテスクなものだ)。

こうした質感を演技が際立たせる。新田さんの振る舞いには「とぼけ」がない。従来の関田作品でも表情は能面のように管理されているような気がするが、それはある種の軽さを持ち、どこかとぼけている。とぼけは上演において笑いを産む。そうではない新田さんの演技は、観るものを緊張させ硬直させる。そのことがまた、「ひとり」を際立たせる。

作中で唯一、部屋の外へと風景がひらく場面がある。語りと身振りによってひらかれた美しい景色にわたしは息をつく。しかし、それが記憶として回収され、閉じこもる部屋へと収束する時、もう一度息をのむ。外から響くノックの音、ベタッとした蛍光灯。無音の世界の空恐ろしさが、改めて迫りくる。何もない空間に、カメラのひとつでも見えてほしいと思う。息詰まる30分。めっちゃスリリング!!

劇作家 / 演出家 / 屋根裏ハイツ 中村大地



クールな作品かと思えばユーモアに溢れていて、ファンタジーかと思えば日常を描いている。わたしが抱く関田さんの作品への信頼は、どこか遠くへ行こうと手を引くのではなく、肩を並べて景色を眺めようとする眼差しにある。

そして舞台上の出来事を観察していると、ある瞬間に演劇が見せてくれる美しさに出会う。関田さんの作品を見るときのこの期待が、映像作品となった『波旬』でも感じられたのは嬉しい。

環境や人とのコミュニケーションによって変化する感情や身体は、日常を過ごす中でわたしたちも体験している。舞台上にいる俳優もまた、とある日常の中で起きた感情の起伏やシーンの狭間を泳ぎ続ける。

新田佑梨さんのその冷静な所作の運びの連続がわたしたちに見せてくれる景色は、舞台上で演じるということがいかに高い技術を要するかを示していて、こちらに向かって後退りする背中とその震えが誰のものなのかわからなくなったとき、俳優がそこにいることの意味を感じられる。そして私は演劇を目撃したんだ、と思う。俳優、かっこいい!

次回作も非常に楽しみです。『雁渡』。かりわたし。いつもタイトルも素敵です。

俳優 深澤しほ




※たくさんのアーティストの皆様に「波旬」をご覧頂きありがとうございました。そして、このように素敵な言葉を尽くしてくださり本当にありがとうございました。ご視聴いただいた全ての皆様に感謝申し上げます。そして本作を共に創作してくれたクリエーションメンバーの皆様にも心より感謝いたします。

 











撮影:小島早貴


 


















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